「まだ、花に会う気はねぇのか?」 瑞貴は伸ばしかけていた手を静かに止めた。 (……ずいぶんと久しぶりの問いだな) ――そうとすぐにそう感想が漏れるあたり、自分の諦めの悪さと執着を思い知らされる。それはたとえ、江ノ本のジイさん相手にでも、知られるわけにはいかなかったが。 この角度なら、伸ばしかけた手はまだ見えないはずだ。そう言い聞かせるようにして、瑞貴は体の横へと腕を下げた。 昔のように大げさに反応しなかった自分に感謝しながら、一度ゆっくりと瞬いて花を視界から出す。 「『まだ』も何も……もう会うつもりはないよ」 深呼吸をし、気持ちを落ち着けてから振り返った。昔と違い、見上げることのなくなった場所で、まっすぐに目を合わせる。この人がこんなに小さく思えるようになったのは、いつからだろう。 それほどまでに、時間が過ぎているのだと意識する。そして、こうしていられる時間も、そう長くはないことも。 ……最初から、分かっていたことだと胸中でつぶやいて。幾度も自分に言い聞かせた言葉を唇にのせた。 「もうガキの頃の思い出なんて、普通の奴でも薄れてる頃だから」 笑みさえ浮かべて、そう告げる。昔のような、それは悲痛なまでの思いではなく本音だった。今の自分の置かれている状況を思えば、選択肢は昔よりも更に狭まっている。この年になれば嫌でも分かる。 幼い頃ならいざ知らず、危険とは言わないまでも面倒に巻き込むのはもはや確定された事実だ。そうでなくとも、後継者を一刻も早く残すようになどという、もはや見合いとも呼べぬほど露骨な駆け引きが横行しているというのに。 だから、時間の流れの中、もはやそれは失われたものだと、きっぱりと告げた。 「でも、おめーは覚えてるんだろ」 まっすぐに、こちらの奥底の想いまで見通すような目が俺を見て、そしてさっき伸ばしかけた手へと向けられる。思わずぴくりと震わせて、きつく拳を握り締めた。 「……今年はまた随分伸びたんだな、この花」 話を逸らすように、言い訳するように。目の前にある凌霄花を見上げて言うと、ジーさんも同じものを見上げて頷く。 「ああ、今年は手入れできなかったからなぁ。そのうち塀を越しちまうかもしれん」 「……それはないと思うけどな」 あまりにも高すぎる天原の別邸の塀を見て、瑞貴は笑いながら否定する。 ――触れることすらできないものが、どうやって乗り越え伝っていけるというのか。 「どうして手を下ろしたんだ?」 「……何が?」 「花が見たいんだったら、そのまんま手を伸ばしゃよかろうに。簡単なことだ」 何を躊躇うことがある――と。言われた言葉は何をさしているのだろう。 「だから俺はもう――!」 はっとして、苛立ちのままに言いかけた言葉を止め、反射的に口を覆う。 自分の思うものがもう、完全に目の前の「花」でなくなってきていることに気付いて、瑞貴は大きく溜め息を吐いた。 それをみて、「ほれ見ろ」と言わんばかりの苦笑をジーさんが浮かべる。 (最初から、見られていたわけか……) 溜め息を吐いて、表情が自嘲を帯びたものに変わるのに気付きながら呟くように答えた。 「たとえそうだとしても、それだけだ。もう……」 殆どそれは意地に近い気持ちと言うべきか。端から無理だったのだ。江ノ本のジーさんの前で取り繕うことなど。 「お前は、ほんっと変わらねえなぁ……欲しいものは欲しいって素直にいやぁよかろうに」 これ以上は隠す方が無意味だと。観念しろと言われているようで、ため息をつく。本当に、性質が悪いジーさんだ。 「それでも……本当にかなえたい願いは一つだって決めた。だからなおさら、巻き込むつもりはない」 内情はさておき、『魂返し』を知られている手前、ジーさんも天原の事情は知っている。『昔から金持ちは色々とめんどくせえと相場が決まってるからな』と、迷う俺を見つける度にジーさんはそう言って深くは聞かず気の済むまでいさせてくれていた。最近こそ話すことはなくなったが、大方は察しているのだろう。 実際、そうに間違いない。こんな馬鹿ばかしい能力も家も、望みはしなかったのに。 まあ俺に詳しい事情は分からんけどな、とジーさんは言って。まっすぐに目を見る。 「なぁ瑞貴。そのたったひとつの望みとやらは、おめえを幸せにしてくれるのか?」 「――……」 答えられるはずがなかった。そもそも俺が幸福になる道なんて、もうどこにも残っていない。過去を取り返すことができないから、未来を絶つことで終わりにしようと思ったのだ。そんなものが望めるはずがない。もう、すべてを無に帰す以外、片付ける術など、ありはしないのだから。 だからこそ。よすがにするのは、『思い出』だけで、十分―― そんな思いを、読み取れるはずもないだろうに。それでも、じーさんは苦笑いをして言う。 「おめーはいっつも考えることが暗ぇんだよ。恐れずに手を伸ばすなり、探るなりしてみりゃいいだろうが。そんなんじゃ届くもんも届かねぇし、握れねーだろ」 ほらよと、ジーさんは無造作に手近にある凌霄花の一つを取り上げて、俺の手のひらに渡す。そうして「ほれ、簡単なことだ」と笑って見せた。 渡された花は、場違いなほどに俺の手のひらの上でも鮮やかさを失わずにそこにある。 「それでも怖いか? 夢や思い出だけウジウジ掘り返すのに慣れて、壊されちまうのが怖いか?」 決して責めるようなものではなく、訥々とした口調だったが、痛いところばかりついてくる言葉だ。 何もかもが正し過ぎることは分かっていたから、まっすぐなその視線に耐え切れずに目を逸らした。 空気は重いまま、でも渡された花を振り落とすことも、乗せられたまま握ることも出来ないまま立ち尽くす。 今更望んで何になる。多くを望んでも失うときが増えるだけだと、わかっているのに。一度でも手折ってしまえば、長くは保たせられず、萎れさせて……傷つけてしまう結果にしかならないのに。 ふっ、と。何かが頭の上に乗せられた。 「若ぇウチからなんでもかんでも『一つだけ』なんて狭いこと考えてんじゃねえよ……ったく、しょーがねぇヤツだな」 まるで昔に戻ったように。最近じゃ腕を上げるのもしんどくなったとか言っていたくせに、がしがしと俺の髪をかき回す皺だらけの掌と腕を感じて。 ひどく懐かしいその感触に、うつむいたまま顔を挙げられない俺に、ジーさんは言う。 「テメェが望めないって言い張んなら、オレが望んでやるよ」 何を、とは聞けなかった。望んでくれる事実だけで十分なのに、これ以上望んでしまうのが怖かった。 そして、その時はただの戯れの言葉だと。ふがいない俺を、ただ励ますためだけのものなのだと。……そう、思ったから。 だから、何も答えずに、盛りを過ぎてなお一面に咲き誇る花と手の中の花を見つめて、目を閉じた。 そう、人知れず見つめて、思い出を反芻して。これ以上手折ることも触れることもなく、遠い場所で思いよすがにするだけで十分だと……そう思っていた。 ――その時は。 それは、ジーさんが最期の入院に入る直前の夏の終わり。 ……そして数ヵ月後。 ジーさんの言葉が偽りでもなんでもなく、遺言という法的にも動かせない形で実現してしまうことを…… そして、拒みきれず最後は俺自身が望んでしまうことを――思い知らされることになる。