「どうしたの? クラトス」 前を歩いていた大きな背が不意に立ち止まって。首を傾げてかけた声に、ゆっくりと鳶色の瞳がこちらを向いた。 「アンナ」 隣に来るように促す声を不思議に思いながら足を進めて、クラトスの視線の先を追う。 そこにあるのは、雲ひとつない青空と―― (花、びら?) 青の中でかすかに分かる薄紅色の爪ほどの大きさのもの。予想していなかったものを見て息を飲むわたしに、傍らから紺色のグローブに覆われた手の平が差し出される。グローブと対照的な色合いを持つ薄紅色の花びらが、さっきわたしが予想したものを肯定するようにその存在を主張していた。 「もうこの花が咲く季節だったのだなと思ってな」 言葉と共に、ひらりと花びらがわたしの手へと降りてきて。今にも飛んでしまいそうなそれをそっと両手で包んで、まじまじと見る。光の加減によっては白にも映るけど、それは限りなく白に近い薄紅色の花びら。それは、桜――春先の僅かな間に咲く花のものだ。 「ほんと……もうそんな季節だったのね」 ずっと季節を感じる程の余裕がなかった心に、ふわりとそれは舞い落ちてくるようで。知らず声が弾んでしまう。どこで咲いてるのかと薄紅色の風を辿ると、簡単にその木は見つかった。 わけもなく溢れる嬉しさにその樹に向かって駆け寄る。 「クラトスも早くっ!」 あくまでもゆっくりとこちらに足を向けるクラトスに急かして手を振ると、鳶色の瞳には微かに苦笑の色。確かに少し子供っぽいと自覚しているけど、そんなことに頓着する気にもなれなくて、ようやく近づいたその腕を取って一緒に桜を見上げる。 「ちょうど今が盛りみたいね」 枝の先に密集して咲く薄紅の花は、枝の細さが想像できないほどについている。少し強い風が吹いてしまえばあっという間に散ってしまうような花だから、「運がよかったわ」と笑うと、視界の端で「そうだな」と返して頷くのが見えた。 ひらひらと舞い落ちる薄紅色を見るのは本当に久しぶりで、目を細めて手を伸ばす。昔から、何度か慣れ親しんだ香りと色に、懐かしさがこみ上げてくる。 「昔からこの花が大好きなの。春になると、この花をよく家族と見に行って……」 そう、まだ家族一緒に暮らしていた頃は、春になると見ていた、花。母が料理を作って、私もそれを手伝って。みんなで花を見ながらおいしいと食べていた。目を閉じれば、今でもそれは鮮やかに思い出せる。 今となっては叶う事がないその情景は、失われた過程を思えば胸が痛まないわけではないけれど。思い出はとても温かいから、花を見上げながら笑顔のままでゆっくりと記憶を辿っていく。 「一度なんか花が密集しているところに行きたくて登ったら、降りれなくなったこともあったのよ」 「……そうか」 話しながら大騒ぎしたことを思い出して、くすりと笑って。クラトスも表情を緩めて相槌を打ってくれる。 低く落ち着いたその声は、記憶の中のどの家族とも違うけれど。でも同じくらいに大切な人の声。クラトスと見上げたこの桜も、きっと同じように温かなものになる。それは確信。 「夜に見るのも、雨に濡れているのも好きだけど、でも一番好きなのはこんな風に綺麗な青空と一緒に見ることなの。だから……」 一度言葉を切って、傍らに立つ彼と目を合わせて。 「あなたと一緒に見られてよかった」 笑顔で告げれば、案の定彼は困ったように目を逸らして桜と空とを見上げる。そしてわたしの目に今映っているのは、クラトスと桜と青空だ。 ……そう、家族と――そして大切だと思える人と見上げた桜は、いつも青空がその背景にある。その景色の美しさ以上に、その事実がわたしのその『一番好き』を支えている。 たとえ、それが帰ることのできない思い出であっても、何より幸せと結びつくこの風景が大切と思える。 そっと、傍らに立つ大切な人を見上げる。気が遠くなるほどに生きて来た人。それはきっと、これからも同じで。そして、きっとわたしはそう遠くない将来、この人の側にいられなくなくなる。おそらくは、彼の持つそれとは似て非なる、体に埋め込まれたエクスフィアという鉱石によって。 そうなった時、誰より自分に厳しいこの人は、わたしのようにこの風景を大切なものと思えるだろうか。救うことができなかったと、わたしにとって幸せだった時間さえ、痛みとともに思い出してしまわないだろうか。 不安にぎゅっと手を握って。何ができるかを考えて、彼の名を紡いだ。 「……ね、クラトス」 「なんだ?」 優しい人。呼べば必ず答えてくれる人。そんな人に、わたしはとても残酷な『お願い』をする。 「約束しましょう? 来年の春も……ううん。その先もずっと一緒に、この季節が巡ったときには必ずこの花を見ましょう」 「……アンナ、それは」 彼の顔が、ほんの少し戸惑って。そしてわたしの言葉が真剣なものだと悟って強張る。そう、本当に彼は真面目で永く生きた人だから、「訪れる可能性の高い未来」を考えずにはいられない。 そこまで分かっていて、それでも私は首を傾げて聞く。 「不確かな約束はしたくない?」 「……未来は、誰にも推し測ることは、出来ないからな」 できることならば約束したい、でも確約はできないのだと、そう言外で告げている。一件普段と変わらない、でも乾いたような声は、きっと誠実な彼にとって精一杯の返答だから。「そうね」とわたしもその言葉に頷いた。 「わたしも守れない約束を無理にして欲しいなんて言わないわ」 だから。 「これはわたしの我がままで勝手な『お願い』」 そう、お互いが望まなければ、それは『約束』ではないから。 そしてこれは、わたしにとっての賭け。 「アンナ……」 戸惑う表情を浮かべ続けるクラトスに、笑いかける。わたしは、伝えなければいけないから。 「あなたが辛いと思ったならわたしのことを全て忘れてもかまわない。でも、もしもあなたがわたしを覚えていてくれるなら、忘れないで。そしてこの花を見るときだけでもいいから思い出して。わたしがあなたと会えて幸せだったこと。たとえ無理なことでも約束したいと思えるくらい愛していたこと」 いつか、気付いてくれるだろうか。この『お願い』が『約束』と同じものだと。 わたしの中で、この風景が結び付けてくれる「家族」が確かに生きているように。 どうか、わたしが大地から喪われても、「わたし」があなたと共にこの風景を見ることができますように。 「あなたと一緒にこんなにも美しい世界を見る事が出来て私は幸せだから。傍にいてくれて、ありがとう」 躊躇うように震える彼の唇は、最後まで言葉を紡ぐ事はなかったけれど。ただその気持ちに感謝して、言葉に詰まった代わりに伸ばされた手を取って、自分の頬に押し当てた。 「――――大好きよ、クラトス」 いつか、この『お願い』が『約束』となりますように。 でも、もしも叶うならば。 『お願い』が『約束』にならなくても、ずっと長くあなたと共にあれるように――
2005.4.1 [ 出雲 奏司 ]