薄紅・蒼穹  <Tales of Symphonia <TOP




 傷を負い、息子の育ての親であるドワーフの元に世話になって幾日になるのか。
 無意識の内に足を向けてしまうその場所は、かつて愛した女の名を刻んだ石碑。
 日々の挨拶を欠かしたことはなかったと、息子は言った。それに倣ったわけではないが、同様に――いや、それ以上に日に何度も家の傍らにある墓石の前に立つ。特に何をするわけではないのだが、最早日課となってしまったその定位置で、空を仰ぐ。
 広がる蒼穹の空は、ほんの数日前に息子とその仲間達が取り戻したものだ。永く在り続けた歪みは世界にその爪痕を残しているが、確実に新たな再生の道を歩み始めている。
心なしか先頃まで色を失いかけていた木々さえ、瑞々しく映るのだから。
「気の持ちようということか」
 苦笑めいたものを口の端に浮かべて呟くと、その言葉を攫うように一度強く風が吹いた。とっさに顔をかばうように右腕を上げて、再び空を見上げれば、そこには先ほどまではなかった色が存在していた。白……いや、あれは。
 濃紺のグローブの先から伸びた指が、蒼空に翻っていた薄紅の花弁を捉えた。
「これは……」
 切れ長の鳶色の瞳が軽く瞠られ、複雑な虹彩を映す。

 ――迷い込んだのは、薄紅色をした爪ほどの大きさの薄い花弁だった。




  薄紅・蒼穹 -- I make a promise for us.




「どうしたの? クラトス」
 唐突に立ち止まったクラトスに、そのすぐ後ろを歩いていた女性が声をかける。
「アンナ」と名を呼び、クラトスはその眼前に広がる情景を示した。そこにあるのは、ぬけるような青空と薄紅の点。目を大きく見開いた彼女に向かい、クラトスはすっと左手を差し出した。その指先にあるのは、空に舞う薄紅の点――花弁。それは春先の僅かな間に咲く花のもの。
「……もうこの花が咲く季節だったのだなと思ってな」
 言葉と共に落とされた花弁を、アンナが右の手の平で受け取る。そして、すぐにでも風に舞い飛びそうなそれを包み込むようにそっと両手を重ねた。
「ほんと、もうそんな季節だったのね」
 季節を感じ愛でるには、あまりにも慌しい生活。ささやかながら見つけたその気配に、アンナは口元をほころばせる。
「どこで咲いているのかしら」
 その言葉に、二人揃って風上へと首を向ければ、ごく小さなものではあったが限りなく白に近い薄紅の密集したような樹が一つ。とたん、アンナは目を輝かせその樹に駆け寄って。早く、と急かす声にクラトスも足を向けた。
「ちょうど今が満開みたい」
 ようやく横に並んだクラトスを待ちわびたように彼女は腕を取り、枝を指差す。枝の先の形が見えぬほどに密集して咲いている花は、なるほど今が盛りに違いない。その儚い色合いに違わず、強い風が吹けばすぐに散ってしまう花だ。「運がよかったわね」と嬉しそうに笑うアンナの言葉に頷いて目を細める。永く生きていたが、満開となったこの樹を見た回数は決して多くない。
 ひらひらと舞い落ちる花弁を身体に受けるようにし、アンナは樹に――正しくは花に向かって手を伸ばした。
「昔からこの花が大好きなの。春になると、この花をよく家族と見に行ってね。一度なんか花が密集しているところに行きたくて登ったら、降りれなくなったこともあったわ」
「……そうか」
 思い出を辿る表情に翳がないことに安堵しながら、静かに相槌をうって。アンナと同様に花弁を降らせる樹を見上げた。細かく分岐した枝先いっぱいに花びらの影から、調子に乗って樹に登るアンナが見えるようだ。そう錯覚しそうなほど、彼女の声は弾んでいる。
「夜に見るのも、雨に濡れているのも好きなんだけど、でも一番好きなのはこんな風に綺麗な青空と一緒に見ることなの。だから……」
 言葉を止めた彼女は樹から目を外し、クラトスを見上げた。
「あなたと一緒に見られてよかった」
 目を細めにこりと笑った彼女に気恥ずかしさに目を逸らし、一番好きだといったその風景を見る。鮮やか過ぎることのないコントラストは、確かに美しい。
「……ね、クラトス」
「なんだ」
 見上げたまま言葉紡ぐ唇は、薄紅を踊らせた蒼空を背景に滑らかに音を滑らせる。
「来年の春も……いいえ、その先もずっと一緒に、この季節が巡ったときには必ずこの花を見ましょう」
 夢見るように、その言葉は軽やかで甘かった。
 だが……
「……アンナ、それは」
 それは、あまりにも厳しい願いだった。そして真っ直ぐとこちらを見る目は、気休めの約束を求めるものではない。
「不確かな約束はしたくない?」
 穏やかな声音で告げられたそれは、だが同時に真剣さを帯びて。見えざる何かに声帯を締め付けられるように感じながら、ゆっくりと口を開く。
「……未来は、誰にも推し測ることは、出来ないからな」
 この状況が続く限り、守れる確率は決して高くない。出そうになった不吉なその響きを口内だけに押し留め、逃れるように視線を逸らす。口にはせずとも察したのか、困ったようにアンナは笑った。
「そうね。わたしだって守れない約束を無理にして欲しくはないもの」
 その言葉は、厭味ではない。ただ強制したくないという、事実を述べたもの。それゆえに答える言葉に迷い、口を閉ざす。
 嘘も、残酷な現実も口にしたくはなかった。たとえ、沈黙がそれを告げていることに繋がるとしても。
「……じゃあこれはわたしの我がままで勝手な『お願い』」
「アンナ……」
 アンナは穏やかな笑顔を浮かべて、まっすぐに目を合わせてくる。
「あなたが辛いと思ったなら、わたしのことを全て忘れてもかまわない」
 ――何を、と問う間も与えずその声は、穏やかな春風と共に続く。
「でも、もしもあなたがわたしを覚えていてくれるなら、忘れないで」
 ざあっ……!
 不意に勢いを増した風にざわめく木々の音。それになぶられる髪を手で押さえながらも、瞬き一つせず彼女は告げる。
「――この花を見るときだけでもいいから思い出して。わたしがあなたと会えて幸せだったこと。たとえ無理なことでも約束したいと思えるくらい愛していたこと」
 今にも泣き出しそうな表情で、それでも彼女は笑っている。まるで何かを祈るかのように、ここではないどこかを見つめて。そしてその祈りの言葉を、風と共に遠い場所へまで運ぼうとするかのように。
「あなたと一緒にこんなにも美しい世界を見る事が出来て私は幸せだから。傍にいてくれて、ありがとう」
 ゆっくりと細められた目は、まるでその像を焼き付けるかのようにまばゆい光を宿して。
 声を張り上げているわけではないのに、その言葉は刻み付けるように重く響いていく。
「――――大好きよ、クラトス」
 ……声が、出なかった。
 どう答えればよかったのだろうか。どんな言葉を選べばよかったのだろうか。
 ただ、言葉なく手を伸ばし頬に触れて。重ねた儚い温もりだけしか、与えることが出来ず。
 結局受け止めるべき言葉は躊躇いのまま蒼空の元には出ることはなく浮かび。彩っていた薄紅は風に攫われ散り急いだ。



 蒼空に舞っていた薄紅色がひとひら。
 記憶の中の彼女へと、無意識に伸ばしていた手に引き寄せられるように舞い込む。
 はっ、と。
 手繰り寄せていた記憶の糸が解け、知らず伸ばしていた手が高度を落とした。完全に下りきらなかった手のひらには、その残滓のようにある花びら。
 ――あの時。
 彼女は答えを求めなかった。そして自分もまた、問うことはなかった。ただ時折ふと思い出した時、答えに惑うことを、嘘つくことの苦しさを、負わせたくないと思ったのだろうかと考えることはあった。
 ――アンナを己の手で殺す結果となってしまった、その時までは。

『出来るならこの花を見るたびに思い出して。少なくとも今このとき、わたしが確かに幸せで笑っていたってこと』
『あなたと一緒にこんなにも美しい世界を見る事が出来て私は幸せだから』
『傍にいてくれて、ありがとう』
『――――大好きよ、クラトス』
 そんな優しい言葉記憶を、思い出すことなど出来なかった。出来ようはずもなかった。そんな感情さえ、失っていた。よしんば感情が残されていたとしても、苦痛にしかならないものを――彼女との記憶を思い出そうとしたりはしなかっただろう。許されるはずがないと、思い続けていた自分には。
 ――だが、息子にこの命を惜しまれた今更にして思う。
 どうして忘れられていられたのか。己を責める事だけが懺悔だと思い続けていたのか。
 一人死に場所を求め、息子にまで苦しみを背負わせ。幸福な記憶さえも、己への戒めとして反芻して……
 ありがとう、とあの時アンナは本当に幸せそうに笑っていたというのに。そう、確かに笑っていたのだ。
 ……それが、全ての免罪符となるわけではない。
 だが、その言葉を忘れ己を蔑ろにする事は、彼女への冒涜となろう。そう、少なくとも、彼女が愛したこの風景の前だけでは、彼女に許される。
 都合のいいばかりの、それは思い込みなのかもしれない。だが、少なくとも、アンナはこの景色を愛した。そして幸せだと、言っていたのだ。
 一度目を閉じ、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。再び瞼を上げた先にあるのは、彼女の愛した柔らかなコントラスト。
 その場から一歩だけ踏み出し、口の端を微かに持ち上げる。
「……長く、待たせた。久方ぶりの花見だな」
 蒼穹の元に溶け出した想いと言葉に誘われるように、はらりと新たな薄紅が手へと舞い降りる。
 見上げる空はあの時とは異なるもの。そして、彼女が何より望んだ世界の形。変わらない、彼女が愛した色。
(見えるか? 見ているか、アンナ)
 ――『この季節が巡ったときには必ずこの花を見ましょう』
 守れぬ約束などではない。その記憶と、想いと寄り添い続ける事こそが彼女が望んでいたこと。今なら、分かる。
 取り戻した、色づいた世界の元で。
「……ようやく、私も伝えられる」
 舞い降る薄紅の花弁を彼女の元に下ろし、その名をなぞるように指を滑らせる。墓石が、彼女を偲ぶための形に過ぎぬのだとしても、思い続ける限り、それは確かに彼女であるように。遺された者のために存在する『かたち』たちに、万感を込めて告げる。
「――ありがとう」
 流す涙などとうの昔に失くしていたはずの頬に、ひとひら。花弁に紛れ季節外れの雪花が触れ、溶けて流れ落ちる。
「お前が愛した……そして、望み続けた色だったな。私も幸せだ、アンナ」
 蒼空に溶け出し、そこで踊る薄紅色の花弁が運んだ願いは、幾年越えてようやく重る。
一度は色を失い、だが廻りえた蒼穹と薄紅の元で、『願い』は確かに『約束』となった。






-END-



 「いつかへと贈る祈り」のクラトスVer. 遅くなりました(土下座)
 時期飛び飛びで書いたのでところどころ違和感があるかもですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
2005.7.13 [ 出雲 奏司 ]

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