傷を負い、息子の育ての親であるドワーフの元に世話になって幾日になるのか。 無意識の内に足を向けてしまうその場所は、かつて愛した女の名を刻んだ石碑。 日々の挨拶を欠かしたことはなかったと、息子は言った。それに倣ったわけではないが、同様に――いや、それ以上に日に何度も家の傍らにある墓石の前に立つ。特に何をするわけではないのだが、最早日課となってしまったその定位置で、空を仰ぐ。 広がる蒼穹の空は、ほんの数日前に息子とその仲間達が取り戻したものだ。永く在り続けた歪みは世界にその爪痕を残しているが、確実に新たな再生の道を歩み始めている。 心なしか先頃まで色を失いかけていた木々さえ、瑞々しく映るのだから。 「気の持ちようということか」 苦笑めいたものを口の端に浮かべて呟くと、その言葉を攫うように一度強く風が吹いた。とっさに顔をかばうように右腕を上げて、再び空を見上げれば、そこには先ほどまではなかった色が存在していた。白……いや、あれは。 濃紺のグローブの先から伸びた指が、蒼空に翻っていた薄紅の花弁を捉えた。 「これは……」 切れ長の鳶色の瞳が軽く瞠られ、複雑な虹彩を映す。 ――迷い込んだのは、薄紅色をした爪ほどの大きさの薄い花弁だった。
『出来るならこの花を見るたびに思い出して。少なくとも今このとき、わたしが確かに幸せで笑っていたってこと』そんな優しい ――だが、息子にこの命を惜しまれた今更にして思う。 どうして忘れられていられたのか。己を責める事だけが懺悔だと思い続けていたのか。 一人死に場所を求め、息子にまで苦しみを背負わせ。幸福な記憶さえも、己への戒めとして反芻して…… ありがとう、とあの時アンナは本当に幸せそうに笑っていたというのに。そう、確かに笑っていたのだ。 ……それが、全ての免罪符となるわけではない。 だが、その言葉を忘れ己を蔑ろにする事は、彼女への冒涜となろう。そう、少なくとも、彼女が愛したこの風景の前だけでは、彼女に許される。 都合のいいばかりの、それは思い込みなのかもしれない。だが、少なくとも、アンナはこの景色を愛した。そして幸せだと、言っていたのだ。 一度目を閉じ、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。再び瞼を上げた先にあるのは、彼女の愛した柔らかなコントラスト。 その場から一歩だけ踏み出し、口の端を微かに持ち上げる。 「……長く、待たせた。久方ぶりの花見だな」 蒼穹の元に溶け出した想いと言葉に誘われるように、はらりと新たな薄紅が手へと舞い降りる。 見上げる空はあの時とは異なるもの。そして、彼女が何より望んだ世界の形。変わらない、彼女が愛した色。 (見えるか? 見ているか、アンナ) ――『この季節が巡ったときには必ずこの花を見ましょう』 守れぬ約束などではない。その記憶と、想いと寄り添い続ける事こそが彼女が望んでいたこと。今なら、分かる。 取り戻した、色づいた世界の元で。 「……ようやく、私も伝えられる」 舞い降る薄紅の花弁を彼女の元に下ろし、その名をなぞるように指を滑らせる。墓石が、彼女を偲ぶための形に過ぎぬのだとしても、思い続ける限り、それは確かに彼女であるように。遺された者のために存在する『かたち』たちに、万感を込めて告げる。 「――ありがとう」 流す涙などとうの昔に失くしていたはずの頬に、ひとひら。花弁に紛れ季節外れの雪花が触れ、溶けて流れ落ちる。 「お前が愛した……そして、望み続けた色だったな。私も幸せだ、アンナ」 蒼空に溶け出し、そこで踊る薄紅色の花弁が運んだ願いは、幾年越えてようやく重る。 一度は色を失い、だが廻りえた蒼穹と薄紅の元で、『願い』は確かに『約束』となった。
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「いつかへと贈る祈り」のクラトスVer. 遅くなりました(土下座) 時期飛び飛びで書いたのでところどころ違和感があるかもですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。 2005.7.13 [ 出雲 奏司 ] |