普通の人であれば眠りについていてもおかしくない時間。 窓から入ってくる紫の光と机に置かれたランプの色とが混ざり合い、不思議な色がそこに映っている。 コト。 パラ、パラパラパラ―― 羽ペンを置く音に続いて、ページを送る音が一定ではないがとぎれることなく部屋の中に響く。 少しではあるけれど生まれた風に、部屋の主のふわふわとした薄紫の髪が揺れた。 パラ、パラ……パラ…… 振り落ちる音はだんだんゆっくりとなり、最後に厚い表紙が褐色の手の中に残る。 《今日はな、3日前にキールが見つけてきたクィッキーのお友達に名前つけたよ。 ガクメイが"ポットラビッチヌス"だから『ポット』。キールがつけたな。 たんじゅんだな〜って言ったら、クィッキーも似たり寄ったりだろって怒ってた。 そんなことないよな? クィッキーはクィッキーだもん。 ――》 薄紅色の口元に笑みを浮かべて彼女――メルディはくすくすと笑った。 「そーいえばそんなこといってたな」 声を弾ませながら呟いて、表紙を指から放す。 ……パタン。 一年分の思い出を詰めきったそのノートを閉じると、机の一角から箱を取り出して机の上に置いた。 箱の蓋を開けたその中には、やはりそれぞれの一年が詰めこまれたノートが2冊。 ノートに一年間を写し終わるたびに少しずつ振りかえってそれぞれの時間を思い返す。それは一種の儀式ともいえる習慣。 無造作に取り出し開いて、パラパラとページをめくる。 《今日はずっと、たくさん嬉しいこと! キールと一緒に空見上げてたらな、流れ星が落ちてきたよ。 ――》 目に飛び込んできたその一文にそっと目を細める。 これはリッドやファラ、チャットがセレスティアへ着いた時のこと。 "いつかきっと流れ星が落ちてくる"―― キールがインフェリアを懐かしんで空を見上げるたびにそう言っていたあのころ。 はっきりとした予感があったわけではないけど、その言葉の通りリッドたちは改造されたバンエルティアに乗って突然やってきた。 一年ぶりの再会だったけれど、リッドもファラもチャットもそして連絡を受けてやってきたフォッグも、旅してたときと少しも変わってなくて、いつまでも話しこんでたっけ…… 3冊の中で一番古い日記を視界の中に見つけて、手の中にあった日記を閉じてわきに押しやった。 少しだけためらった後、そっと手を伸ばして表紙を恐る恐る持ち上げる。 開かれた最初のページにはたった一言。 《グランドフォール》 ただそれだけ。 唯一書かれているその言葉さえ、水に濡れたようにじんでいてほとんど読めない。 他の余白は、全てぼこぼこした感触を伝えるばかりでなにも書かれていなくて。 でも、それだけで十分。……十分……だった。 「……っ……!」 思わず目頭が熱くなって、ぼやけはじめた光景にいそがしく瞬きを繰り返す。 ……あのたくさんのことに終止符が打たれた旅を終えてから書いた、最初の日記。 あの頃は、全てを失って、キールさえもいつかはインフェリアに帰ってしまうと考えて。ずっと気持ちが落ち着かないでいた。 そのせいで、擦違ったり衝突することもあったけれど、そんな自分をずっと見守りつづけてくれていたキール。 ……あの日から、もう3年。 たくさんの嬉しいことや悲しいことがあって、ここまできた。 ふっと傍らに目を落とすと、クィッキーとポット――一年前に家族になったポットラビッチヌス――がお互いを尻尾で包むように寝ていて、その間にはまだ姿を見せないけれどとても小さな赤ちゃんがいる。 温かい気持ちが胸の中で広がって、知らず知らずのうちに優しく微笑んでしまう。 新しい家族が増えること。これも嬉しいことの一つ。 「そー言えばリッドとファラも赤ちゃんできた言ってたな」 再会した頃はまだ相変わらずだったリッドとファラも、今では結婚している。 1ヶ月前会った二人の少し照れたような、でもとても幸せそうな笑顔を思い出す。 特に赤ちゃんののことを話すファラは見たこともないくらいにキレイで、キールと2人少しびっくりしてしまった。 きっと、リッドのせいだろうってキールは言ってたけれど…… ファラはリッドがこととても大好き。リッドもそう。 自分は…… 鮮やかな青が目蓋の裏にひるがえる。 無意識のうちに幸せそうに微笑んでしまっているのに気付かないまま、メルディははっきりとその像を描こうと目を閉じた。 いつも無造作に束ねられた、長くて綺麗な縹色の髪。自分とは違って色素の薄い白い肌。時々笑いかけてくれる時、思わず胸がどきどきしてしまう、温かくも冷たくも見える青紫の瞳。 目を開けても、はっきりとその姿を映せるくらいにずっと一緒にいて、そばにいるキール。 でも、あまりに長い間近くに居過ぎて距離を測りかねているのも本当で、時々何とも言えない複雑な気持ちになってしまう。なんだか胸の真ん中がもやもやして、不安のようなものが押し寄せてくる。そうして、時間が経てば経つほど、心にキールが占める割合が大きくなっている。3年前みたいに、それがどういう気持ちかわからないほど、もう子どもではないけれど…… でも、3年経った今も自分の心が見えないことが多くて、自分が何を求めているのかわからなくなる。 今に不満があるわけじゃないけれど、物足りないと感じているのだろうか。 (……わかんないな) 軽く溜息をついて、クィッキーたちから目を離した。ぼんやりと別に出していた新しい日記帳を見つめて考える。 キールは、どう思っているのだろうか。……自分を。 大切に思われていることは分かる。そしてきっと一番に想ってもらえてることも。 でも、自分が想うほどに想ってもらえてるのかは分からなくて、自分の気持ちだけが先走って空回りしてないだろうかと怖くなってしまう。 明日から使うつもりの新しい日記帳の白いページに指を滑らせて。しかしどんなに見つめても、そこにはなにも見えてきはしない。 嘆息して、パタンと日記帳を閉じる。 ……想いなんて比べられるものではないのかもしれないけれど…… 安らかな寝息をたてる温かな家族。 知らないうちにまた見つめていたことに気付いて微笑する。 きっと、自分が求めているのは…… コン、コン…… 少し控えめなノックの音に顔を上げる。 「メルディ、そろそろ出かけるぞ?」 耳に心地よいテナーを聞いてはっとする。 (バイバ! そういえば……) 今夜外へ出かけると聞いていたはず。日記を読むのに夢中になってて忘れてた! 「ま、待ってな! いま着替えるから……っ」 大慌てで準備をしようとバタバタと部屋を動くと、ドアの向こうからキールが苦笑しているのが聞こえた。 何となくバツが悪くて、見られるわけでもないのに頬を膨らませる。 手早くいつものワンピースに着替えてドアのノブに手をかけ、ふっと足を止めた。 振りかえってクィッキーたちを見ると、目を覚ました気配はなく安らかに眠っている。 その光景に淡く微笑して、ぱちんと明かりを消した。 「ごめんな。キール」 「まったく。それにいつも『な』は余計だといってるだろ!」 しかめっ面をするキールの腕に自分の腕を絡ませて、メルディは上目遣いで返事をする。 「はいな♪」 真っ赤になったキールをニコニコと見上げながらも、頭の中には机に広げられた日記の白さが残っていた。 |