カサリ……トン、トン、トン 肌身離さず持ち歩いているタロットカードの最後の一枚の手入れを終え、机の上で全体を揃えて軽く息をつく。 ゆっくりと一枚一枚カードの手入れをしていたが、普段から欠かしたことのない慣れた作業だ。枚数だけの手間はかかるが、そこまで時間はかからない。丁寧にカードをしまい、部屋を見回す。そこには人の気配も、物音すら殆どない。彼女一人であることを明白に伝えていた。なんとはなく落胆して、溜息をつく。 少し前まではカードを手入れする横で、必ずと言っていいほど控えめながら絵柄を見て質問したり、他愛ないことを話す少女がいた。 だが、少女が――アニーがウォンティガの試練を終えてから、その頻度は格段に減った。それまでずっと胸に蟠っていたものが消えたことで、生来の明るさと積極性を取り戻したのかもしれない。俯きがちだった目が真っ直ぐと前を見るのに合わせるように、彼女は進んで外へ足を向けるようになっていた。 今も、そう。かつては仇としていたユージーンと一緒に街に出るのだといっていたのを思い出す。今まで自ら作り出していた溝を埋めるように、そして父に慕うように。 そうしている姿は年相応の少女のもので、かつては見ることの少なかったもの。素直に嬉しいと思う。無理をして張りつめた空気が緩むのを見ていると、本当に良かったと心からそう思う。 ただ、今のように手入れをするときの静寂にはどこか違和感が付きまとってしまうのだ。 最初に同行する時言ったように、馴れ合うつもりはなかったけれど。いつもあったはずのものがないと言うのは、どうにも違和感が拭えないらしい。 自分でも何を思ったのか分からないまま微かにため息をついて。 ふと、部屋に近づく靴音に気付き、誰だろうかと手入れを済ませたのとは別のカードの場所を確かめて扉へ視線を走らせる。 と、 「おーい、いるかー?」 ノックもそこそこに無遠慮にカチャりと鳴った扉の音と声が飛んでくる。ぼさぼさ頭を見るまでもない、礼儀知らずの来訪者に一気に体の力が抜けるのを感じながら溜め息をついた。 「あんたのところでは、女性の部屋に入るのにノックとドアの開閉を同時にやるのが普通なの?」 ティトレイ、と名を呼んで半眼で見やる。全身緑ずくめのその男はまぁまぁと宥める様に軽く手を上げつつ、もう片手で頭をかいた。 「そうかっかしてると肌に悪いぞー」 「誰のせいだと思ってるのよ」 「わかったわかった、今度からは気をつけるって」 薮蛇だと悟ったらしい。平謝りに徹して早々「で」と立ち直り早く話を変える。 「ヒルダ一人か? アニーはさっき見たけど、クレアは?」 「ヴェイグと一緒に雑貨の補充に行ったわ。ザピィの餌を買いに行くんですって」 「ああなるほど」 ポン、と手を打って納得したような表情を浮かべる。 あの幼馴染二人は放っておいても大丈夫……というより、間に入る気にもならないというか。 ぼんやりと思い出して溜め息をつけば、間髪いれずに合いの手が入る。 「なんだー? 辛気臭い顔して」 「あんたはいっつもおめでたいわね」 『辛気臭い』と言われる表情に自覚はなかったが、自分では見えないのだからそうなのだろう。投げ遣りにそう答えれば、納得したようにティトレイは頷くと、にっと笑って人差し指が突き出される。 「ははーん、さてはユージーンにアニー取られて寂しいんだろー」 「……は?」 まさに『寝耳に水』というのはこのことだ。思わぬ言葉に首を傾げて眉を寄せると、ティトレイのほうも意外だったのかきょとんとした表情で問い返す。 「違うのか?」 「……考えたこともなかったわ」 確かにアニーがいないことで一人でいる時間が多くなってきたとは考えていたが。それが『寂しいから』だとは思っても見なかった。 それがありありと表情に出ていたのだろう。盛んに首をかしげて「おっかしーなー」などとぶつぶつ言っている。 「大体、そんな発想どこからくるのよ」 「いやー、さっき宿の玄関通りかかったらアニーとユージーンが一緒に買出し行くのに、マオのヤツが拗ねててさ」 誰より二人の関係を気にしていたが、実際仲良くなると、また違ってくるらしい。複雑な子供心といったところか。生憎子供心の持ち合わせなどないので知りようもないが。 とにかくそれと同類と見られたらしいと悟って、これ見よがしに溜め息交じりに口を開く。 「それで、私もアニーがいなくて機嫌が悪いと思ったってわけ?」 「まあ……そーなんだけどさ」 思いっきり外してしまった事に動揺したのか、もごもごと明後日を見つつ頭をかくティトレイに、遠慮なく溜め息を吐き出した。 どちらにせよ、自分とはあまり関係ないことだ。 「お子様と一緒にしてもらいたくないわね。大体機嫌が悪いわけでもないし。強いて原因言うならあんたの存在ぐらいよ」 「うわ、相変わらずきっついなーおまえ」 「言われるようなことしてるのは誰よって、何回言わせる気?」 「へーへー。そりゃ失礼しましたっと」 もうその話は勘弁、とばかりにパンと両手を叩いて、打ち切ることにしたらしい。小気味いい音と共に表情まで変わり、ぼさぼさ頭の下からいつも通りのにっとした笑顔が浮かぶ。 「でも、ま。よかったよな」 「……そうね」 明確にはされなかった言葉に、それでも察しはついて、頷く。 もう、あの子が苦しむことはないだろうから。そしてユージーンも。 それは歓迎すべきことであれ、異存などない。でも、まあ確かに、こうして言われてみると、少しだけ寂しいと感じていたのかもしれない。とりあえず、こうして一人でいる時間の長さを計ったり思い出すくらいには。 改めて『拗ねてる』と指摘した男の方を見て訊ねる。 「で、結局あんたは拗ねてるかもしれない私を見に来たってわけ?」 「そーいうわけじゃねーケドよ」 なんでだ? と自分で首を傾げていれば世話はない。 普段ならヴェイグに煩がられようと構うのだろうが、クレアがきてからは二人でいるときにはそれなりに気を遣うようだ(もっとも、こっちが気にしているだけで、向こうはまったく気にしないようだったが)。それでマオがすねて、アニーとユージーンが出かけるとなると、必然的にこちらに白羽の矢が立った……というところだろうか。 一人でいる時間が多くなったのは、案外自分だけではないのかもしれない。そう思い当たって、気付いて。不意に笑いがこみ上げてきた。どうやら『寂しかった』と言うのは、ティトレイ自身のことなのかもしれない。 いまだにぶつぶつと独りで首を傾げる男をしげしげと眺めて笑いの吐息を洩らす。 「お生憎様。私は一人でいる時間はそんなに嫌いじゃないの」 嘘ではない。たとえ本意ではなくとも長く一人でいることが多かった事実は、やはり習慣としてある程度は一人でいることを求めてしまうから。少なくとも始終行動を共にするようになって暫くは、そのストレスに苛立つことも少なくはなかった。今がどうかは、あえて考えない。 「そーかぁ? やっぱ一人よか人が多い方がおれは楽しいと思うけどなぁ」 「嗜好の違いでしょ。それはあんたの好み」 うーん、と腕を組み考え込む姿に軽く笑う。おそらく、この男は自分と同じような経験も、感じたこともないのだろう。それがらしいとも思うし、知る必要も多分、ない。 ヒトといることの居心地のよさも、悪さも、その大切さも。きっと本能で知っているようなものだから。 無意識であれ仲間を求めて自分のもとにきたその男に、ヒルダは表情を緩めて顔を向ける。 「でも……まあ、確かに私も暇してたし。あんたに付き合うのも悪くはないかもね」 お茶でも入れてくれる? と聞けば、盛大なブーイングが飛んできた。が、口ではぶつくさ文句をいいながらも、結構楽しそうに備え付けのティーセットを取り出し始める。 それに自然頬が緩むのを自覚しながら窓の外を見やれば、並んで歩いてくるアニーとユージーンとマオの姿が見えた。どうやらあちらも、マオも一緒に出かけることで落ち着いたらしい。そのまま目で追っていると、大きな琥珀の瞳がこちらに気付き、笑顔をこぼして手を振る。それに応じて微かに笑い返して手を上げれば、後ろでティトレイも気付いたらしく大きく手を振っている。アニーに続いて、マオもこちらに気付いて手を振り、ユージーンも手こそ振らないが目を穏やかに細めたのが見えた。 『いってらっしゃい』 口の中でだけそう言って、三人を見送る。 目を部屋に戻せば、せわしなく口を動かしながら律儀にお茶を用意する男がいて。 それらを見ながら、これもまたいいかと、手入れを済ませたカードをそっと撫でた。