「…………」 目の前に鎮座する綺麗にラッピングをとかれた焦げ茶色の物体を前に、アッシュは深く深く溜め息を吐いた。 ナタリアから、遅れてしまっていますけれどと渡されたのは先日のことだ。すぐに押し返そうとしたが、結局押し切られることになったのは現状を見ての通りだ。 嬉しくないと言えば嘘になる。だが、つい昨今ともに旅をした際に見た、一種壮絶ともいえる料理のセンスと技能を見れば、容易に口にすることはかなわない。 かといって、食べずに捨てるなどと言う選択肢は、彼の中には皆無だ。 「……よし」 やや諦めを含んだ溜め息と呟きを吐き出して。覚悟を決め形だけは作り手の性格と同じく、行儀よく並べられたチョコレートを取り上げる。そして一粒、逡巡する前にさっさと口に放り込む。 飲み込むことで難を逃れようと覚悟しつつ、最短時間で舌の上を通過するように口を動かす。……いや、『そうしようとした』彼の動きが止まった。トレードマークのはずの眉間の皺が消え、眇められた目が大きく開かれる。 そして、目の前のチョコレートを凝視し、恐る恐る口を開いた。 「うま……い?」 相当に失礼な話ではあったが、呆然と呟き舌の上に残る味を確かめる。甘すぎることもなく、しょっぱくもなく、血の味も、焦げた匂いも苦味もない。それどころか滑らかで柔らかく、口に入れた瞬間溶けるような味、食感ともに申し分ない出来だ。 「どういう……ことだ?」 作り手に対して失礼だとか、そういった考えなど完全に抜けた状態で、アッシュは半ば本気で唸った。お菓子作りだけは上手いなどというそんなことがありえるのか。 その可能性を考え、即座に否定する。ナタリアの料理下手はそういったレベルですらなかった。 調味料の間違いは当然……どころか、まだましな方だ。 具材となる材料を直接火に投げ込む、かと思えば洗剤を用いてあらゆるものを洗浄し、刃物を握らせればなぜか『切った』はずのものがありえない形状に『砕けて』いる etc... 共に行動した際に聞いて、そして実際目にした事実を思い出して、アッシュの顔が青褪めると同時冷や汗が流れ出す。 いや、王族なのだから、そのような技能は必要はないのだ。強引に自身を納得させて、改めて目の前のチョコレートを見る。そう、今問題(ある意味いいことだが)とするべきことはそれが『美味しい』ことなのだ。 取りあえず、市販のものでないことは包装にしても、形の多少の歪さからして確かだろう。 となると、必然的に手作り。そしてナタリアの性格からして、指導は受けても自分の手で作ろうとするのは想像に難くない。 「まさか……自分で味見を繰り返して……」 そうだ。ナタリアは自分の料理の腕を自覚していた。にも拘らず、何一つ自信のない口振りも、こちらを慮るような言葉もかけなかった。つまりは、それ程このチョコレートに自信があったと言うことだろう。 熟考の末その結論に至り、不覚にも鼻の奥につんとした痛みが走り、目頭が熱くなる。食べるのに、少しでも動揺し躊躇った自分を殺せるものなら殺してやりたいほどの恨んだ。 一体、これほどまでのものを作り上げるのにどれほどの失敗と試作を繰り返しただろう。恐らく、味見の回数も量も尋常ではあるまい。 「……待て」 はたとアッシュは我に返った。以前聞いたことがある。この時期チョコレートを根を詰めて作る女性は、肌が荒れやすくなるのだと。なんでもチョコレートの過剰摂取のせいで肌が荒れやすくなるとか、睡眠不足によるものだとか。そうでなくても現在ナタリアは厳しい環境に身を置いているというのに、無理をさせてしまったのではないか。当然肌の手入れなども、城にいる時程に満足に出来ていないだろう。 そんなことをしなくても十分に美しいが、後々それがいわれのない誹謗中傷の種にならないとも限らない。 「…………」 不味ければ大概一瞬で問題はすむが(……当然食中毒は例外だが)、美味しければそれはそれで問題となる。いや、この場合はなってしまう、というべきか。 美味し過ぎるチョコレートを前に、真剣に悩む『鮮血のアッシュ』の姿。 ……例えようもなく滑稽であったことは言うまでも無かった。 * * *
――まあ、それから色々あって云々。 ロニール雪山で拾ったロケットについて聞こうと、ナタリアを残してバチカルの城に訪れたルーク達は、いつもと違う空気を感じて首を傾げた。どうもすれ違うメイドたちが、ルークの顔を見ては口々に歓声を上げたり笑顔を向けたり、何か囁き交わしているらしい。 反応を見る限り、悪意というよりも好意的なものだとは分かるのだが…… 「なーんか、落ちつかねぇよなぁ」 頭を掻きながらルークが一人ごちれば、女性を身構えてか身体をぎこちなく強張らせながらガイはははっと笑ってその頭をぽんぽんと叩く。 「いいことじゃないかルーク。もててるんだからさ」 「ホント、いっがーい」 「珍しいこともあるものですねえ。気象預言が外れて譜石でも降って来るんじゃないですか?」 「大佐、それは流石に言い過ぎです。本当に降ってきたらどうするんですか?」 「何なんだよてめーらはっ!!」 口々に好き勝手なことを言い合う面々にルークが叫べば、何食わぬ顔でジェイドがにこやかに告げる。 「ほらほら皆さんルークで遊ぶのはそこまでにして」 「アンタが一番酷かっただろーが」 半眼で横睨みするガイの視線をものともせず、飄々とジェイドはルークの前に人差し指を立てた。 「直接聞いてみたらどうです? 丁度いいですからついでにナタリアの乳母の所在も」 「た、大佐……」 「それ、ついでが違うだろ……」 「まーまー、細かいことは気にしないで。ほらほら、丁度いいところにこちらを気にしてる方がいらっしゃることですし」 頭を抱えるガイとティアを完全に無視して唐突にジェイドが振り向いた先には、先ほどから遠巻きにこちらを見ていた数人のメイドたちがいた。 一斉に注目されたメイドたちは、気まずそうに目配せを交わして及び腰になっている。 「ああ、ちょっといいかな?」 「は、はい」 そそくさと逃げ出しかねない雰囲気に、慌ててガイがそう呼び止める。ルークも並んで近づくと、諦めたのかそれとも好奇心に負けたのかそわそわとメイドたちが、意を決したように口を開いた。 「あの、ルーク様」 「プレゼント、いかがでした?」 「殿下は、お喜びになられまして?」 言葉は控えめながらも、何故か期待に満ちた表情で瞳を輝かせ詰め寄られる。 「……は?」 ぽかん、と言う擬音語が聞こえそうな表情で呟いたルークをはじめとした面々を前に、口にしたことで緊張が解けたのだろう。世間一般の近所のおばちゃんよろしく手を振りそうな勢いで、呼び止めたメイドたちが笑みを浮かべて続ける。 「もう、そんな風におとぼけになられなくても大丈夫です」 「……へ? 俺何かしたっけ?」 「いやですわルーク様。先日殿下のご利用になる化粧品を私共に伺いにいらしたではありませんか」 「…………は?」 今度こそ完全に放心状態で固まるルーク。その横で聞いていたティアがやはり訝しげな表情で、メイドたちに問いかける。 「それって、ルークが……ですか?」 「え……あ、はい。殿下の肌荒れを気にかけておいでのようでして」 ねえ、と僅かにルークの反応を気にかけながらも、答えたメイドは隣の同僚と目配せしてうなずきあう。 「わざわざ私のような下々のものにまで声をおかけになって、どのようなものがよいかと聞いていらっしゃいました」 「使う人によって合う合わないがありますもの。殿方でそこまで気をつけていらっしゃるなんて、殿下は本当に愛されておいでなのだと、私共の間で先日からずっと話題になっておりますの!」 ねー、とか、きゃーとか。今にも黄色い声の上がりそうな勢いで彼女らが嬉々として告げる横で…… 「なーんかそれってさー……」 「どう考えてもそーゆーのやりそうなヤツって……」 「素敵……」 ぼそぼそと呟くように各々が溜め息ともつかないものを吐き出した。一人を除いてその表情はなんとも言えない笑いに引き攣ったものになっている。 「…………」 終始無言で俯いて肩を震わせるルークの横で、「ふむ」と腕を組んだジェイドが思いついたように口を開いた。 「もしかして、その時『彼』は髪が長くありませんでしたか?」 「ええ、そうなんです! わざわざ御髪まで変えていらっしゃるなんて、そこまで慎重になさらなくても私たち殿下には洩らしたり致しませんのに……!」 「……確定だな」 熱弁する彼女が最後まで言う前にガイが断言すると、軽く眼鏡の蔓に手を掛けジェイドも頷く。 「ですねぇ。いやぁ、若いっていいですねぇ。実に分かりやすい」 「分かりやすいのはあのボケ担当の性格のせいだと思いますよぅ、大佐〜」 「ア、アッシュの野郎……!」 ふるふると肩を震わせて呻くルークの横で、ふと何かに気付いたように「あら?」とティアが唇に指を当てて考え込む仕草をする。 「じゃあ、ちょっと前ナタリアの枕元に何故か置かれてた化粧品のセットの箱って……」 「ああ、あの緑の包装紙の箱の。アッシュだったみたいだね。やっぱり」 心当たりがそれぞれにあった女性二人の発言に、ガイも「そういえば」と口を開く。 「でも、その箱って確かルーク運んでなかったか?」 「おや、実は本当にルークが……」 「違うっ! 俺はアッシュから呼び出されて、気がついたら押し付けられただけだっ!!」 「……いつの間に会ったんだよお前」 「本人に直接会ったわけじゃねえよ。だーから、ナタリアに直接渡してそうやって問い詰められるのが面倒だから、寝てるの見計らって置いてきたんだよ」 いい加減うんざりしてきたのか、げっそりとした表情で答えるルーク。 だが、その表情に更に追い討ちをかけるが如く、アニスは頬に指をあてるようにしてどこか楽しげに告げた。 「それがさー、ナタリア確かルークがくれたんだと思ってんだよね。誰からの? って聞いたら『ルークからですわ』って言ってたし」 「なんでだよ!?」 「そりゃ、あなたが持ってきたからでしょう」 にべもなく告げられた至極もっともな意見に一刀両断されて。 「だあぁぁもーーいちいち俺を巻き込むなってーのーーーー!!」 ルークの叫びが空しく城内に響き渡っていた。 後日、ナタリアの誤解を解くためにルークは奔走する……つもりだったのだが。 結局一連のごたごたで忘れ去られ、同じく忘れたり面白がった仲間の為にナタリアが事実を知ることは……まだまだずっと先のことになったのだった。
2006/03/14 [ 出雲 奏司 ]