よくよくこの街とは縁があるらしい。 『音機関都市ベルケンド』――その動力を生み出すべく忙しなく動く音機関を宿の窓から眺めて、アッシュは目を細めた。 幼い時の視察、七年前の誘拐時、ヴァンの目的を探るために一時的に行動を共にした際――そのいずれもが、多かれ少なかれその後の進む道に影響を与えていた気がする。 ……そして、ヴァンに対し袂を分かつと明確に宣言した今回。 何が……何か、変わるのだろうか。 必然その渦中だった人物が脳裏に浮かんだが、アッシュは微かに眉を顰めつつ意識の外に追いやり、思索に耽る。 本来ならば、もう暫くは『六神将』の一人として動くつもりだったが、やむをえない状況だった。とにかく、派手に動いてしまった分、今まで以上に動きにくくなるのは想像に難くない。手段の一つとしてレプリカたちと行動を共にするというのもなくはなかったが、不快さが先にたつことを思えば結果などとうに見えている。 ……が、どうなるにせよ、今後何らかの手段を講じる必要があるだろう……そこまで考えて。 サイドに垂らした前髪が緩く振られた頭に合わせて揺れるのを、アッシュは鬱陶しそうに払って溜め息をついた。 どのみち、ジェイドが教団の禁書を読み解く翌朝まで、行動に移ることはおろか、明確な計画を立てることも不可能だ。 無駄な思索にも飽いて、そこで打ち切る。 今一度窓から周囲の様子を念入りに一瞥して、屋内へと視線を戻す。 ヴァン、もしくはリグレットによる追っ手、もしくは偵察がかかっていないか警戒してそれとなく周囲を張っていたが、どうやらそれもないようだ。念には念をとしていたことだが、公言通りこちらの行動を意に介していないらしい。 こちらとしては好都合ではあったが、障害と見なされないことに言い様のない苛立ちを感じて、アッシュは舌打ちして窓を離れた。 ロビーを見下ろせる階上から、借りていた自室のある階へ下る。元々から町に出る用もなければ、レプリカとつるむ奴らと馴れ合うのは論外だった。一直線に自室へ足を進め――かけて。 忙しなく進んでいた足が急にその速度を失い、自室とは別の部屋の扉で止まった。アッシュの口から深い溜め息が落ちる。 そこはジェイドが解散を口にした直後、半ば押し込まれるような形でナタリアが入れられた部屋だった。 聞くともなく聞いていたはずのそれを記憶して、尚且つ足を止めてしまっていた己に歯噛みする。 今更、何を言えばいいというのか。ガイのような慰める為の言葉の持ち合わせなどあるはずもない。 意識しないまま足を向け、止めてはみたものの、その手は動く気配もなくおろされたまま。 アッシュは再び溜め息を吐き、頭を振った。結局、踵を返し再び自室へ足を向けようとして。 「あ、ちょうどいいとこにアッシュはっけーん!」 聞き覚えのある、頭に響く煩わしく甲高い声。面倒な奴に捕まったと、アッシュは明らかな渋面を浮かべ振り返った。 「……なんだ」 「あのさー、そーやっていちいち眉間に縦皺寄せるのどうなのっつーか、こ〜んな可愛い子が声かけてあげてんだからもーちょっと愛想よくしてくれたっていいじゃん、ぶーぶーっ!」 果たして、予想と違わず白地に紫で文様が描かれた法衣を着て、髪を高い位置で二つに結んだ子供が立っていた。今は『元』導師守護役となった子供――アニスに、アッシュは「はっ」と息を吐き捨てた。 「いちいち声をかけるな。言いたいことがあるならさっさと言え」 付き合いきれんと、睨み付けて言えばようやくけたたましい喋りが収まる。 「あーもーはいはい分かりましたよ。んじゃ、ナタリア見張っといてくれる?」 「……は?」 うって変わってあまりに端的なことばに眉を寄せれば、アニスは「だーかーらぁ!」と苛ついたように大げさな身振りで頭を抱えぐるぐると振り回した。 「バチカルからこっち、ナタリア眠れてないんだってば! 色々思うとこあるだろーしぃ、見張りついでに話聞いたげてねってこと」 そこまでアニスは一息で言い、ずいっと身を乗り出してびしりと人差し指を立てた手をアッシュの胸に当てる。話の内容は気にならなくはなかったが、態度そのものは不快以外の何物でもない。 「なんで俺がおまえに命令され――」 「問答無用! 一名様入りマース!」 言うが早いかいつの間にか巨大化されていたふざけた顔の人形に、先程までの躊躇いもろともドンと勢いよく部屋に押し込まれる。窓辺に立つナタリアの姿を確認するのと同時に、先ほどから立て続けに聴かされる声が背後から飛んでくる。 「あーもう! こっちもやっぱし休んでないしっ!」 「あ、アニス!?……と……ア、ッシュ?」 体勢を崩し押し込まれた様相のアッシュを見つけ、ナタリアが目を丸くする。 「じゃ、あたしたちはこれから買い出し行ってくるから。ちゃーんと休ませといてね。ナタリアもだよっ!」 「おい、勝手に……」 アッシュが何とかバランスをとり振り返ったその先で、アニスはひらひらと手を振ってにんまりと笑った。 「ごゆっくりー♪」 言うや否や、アッシュの鼻先でバタンと派手な音を立てて扉が閉められ、アニスの姿が消える。 嵐のあとの静けさの中に、ぽつんと残された者二名。 「な、なにごとでしたの?」 疑問符を浮かべて問うナタリアの声に、アッシュはドアノブに伸ばしかけた腕を止めて振り返った。その時点で追いかけることを諦める。どのみち捕まえたところで、言い合いになれば徒労に終わることが目に見えている。 「……しらん。見張りを押し付けられた」 苛立ちのまま吐き捨てるようにそう言って。そこで、アッシュはようやくまともにナタリアと顔を合わせた。心なしかやつれたようにも見えるその顔色の悪さにアッシュは、かすかに眉を吊り上げる。 「……休んでないと聞いたが?」 まだどこか呆然とした表情で立っていたナタリアの肩がびくりと震え、我に帰ったような表情になる。まるで取り繕うかのように、ぎこちなく笑みを浮かべて首を横に振ってみせた。 「いいえ……大丈夫、ですわ。ゆっくり休めるような状況でもありませんでしたし……その……心配だったものですから……」 そういって、目を伏せる。 それは下層区を目にし心を痛めていた幼き頃の姿そのままで。アッシュは心もち表情を緩めて告げた。 「お前を助けた市民たちならば、死者は出ていない。この混乱の時期だ、暫く厳戒態勢は布かれるだろうが、特に連行された者も刑罰を科されることもないと聞いている」 そうですか、とナタリアは胸の前で軽く手を組んで、小さく安堵の吐息を漏らした。今度はゆっくりと笑みが浮かび、顔を上げる。 「あなたも……お怪我は?」 「俺が近衛兵相手に遅れを取ると思うか」 顔を顰めたアッシュに、ナタリアは「そうですわね」と眩しいものを見るように目を細めた。 「あなたには助けられてばかりですわ。本当にありがとう」 「……さっきも聞いた」 もういいと、更に不機嫌そうに顔を歪ませたアッシュに、ナタリアは続ける。 「でも、落ち着いて言えませんでしたし……何度言っても足りないくらいですもの。もう一度言わせて下さい。ありがとう」 くどいと、強く突き放すように吐き出そうとしたその言葉は、だが続けられた言葉に封じられた。 「あなたとの『約束』のおかげで、私は今ここにいることができ、ここまで来れたのですから」 昔と変わらぬ、親しみを込めた表情で、声で、告げられる。 違うと、否定しようとした言葉は、口の中だけで消えてしまう。あの場で過去の『約束』を口にしたのは、ほかならぬ自分自身だったから。かといって、『ルーク』ではない自分が肯定すること等できるはずもない。ただ、目を逸らし首を横に振った。 「……そうするための努力を払ったのは、おまえ自身の力だ」 誰より民を思い、民に愛される王女としての行いを為していたのは、間違いなくナタリア自身の力だ。たとえ『約束』が存在したとしても、それが行動にならなければ意味がなかった。 それを承知しているように、ナタリアは頷く。 「ええ……そうかもしれません。でも、あなたとの約束が……あなたがいなければ、私一人では出来なかったことにはちがいありませんわ」 揺るぎない、信頼を湛えた光を宿した若草色の瞳がこちらを映し、真っ直ぐに笑んだ。 「ですから、ありがとうございます……今の私には、それぐらいしかお返しできるものも、差し上げられるものもありませんもの」 「それは……!」 違うと、反射的に返しかけて。アッシュは言葉に詰まり、そのまま我に返り続きを飲み込んだ。 もう十分すぎるほどに、貰っていたのだと。果たされていた『約束』の形を。礼を言わなければならなかったのは、自分の方だと。 素直に伝えられれば、良かった。ありがとうと、今でも思いは変わらないのだと、受け止められたなら。 だが、そうするにはあまりにも清算しなければならぬ過ちが多すぎた。手を取ることは出来ない。その資格などありはしない。 「アッシュ?」 反射的に手を伸ばそうとした己に気付き、唇を噛む。気遣うようにかけられた声に、首を振った。 「……なんでもない」 叫びそうになる思いを、伸ばしそうになる手を。硬く固めた拳の中に全て握りつぶす。 「……話は、それだけか」 揺れ動こうとするものを押さえつけ、努めて感情を押し殺して口にする。 そうでもしなければ、何を口走るか分からなかった。一瞬だけ現われた彼女の悲しげな表情を追い出すように目を閉じる。 ナタリアは言葉の接ぎ穂を求めるように二度、三度口を開閉させて。やがて苦笑ともつかぬ溜め息を洩らした。 「不思議ですわね。貴方に会ったら、沢山話したいことがあったはずですのに……」 そう言って盛んに瞬きを繰り返し、頭を振って。唐突にぐらりとその身体がバランスを失い崩れ落ちる。 「お、おいっ!?」 とっさに伸ばし受け止めたアッシュ腕の中で、ナタリアがふらふらと頭を振る。 「ご、ごめんなさい……急に」 眠くなってと。ナタリアの擦れた声に、アッシュは目を見開き、次いで納得する。 ようやく、気が緩んだのだろうか。どこか焦点の定まらない瞳に、言葉の通り眠気が下りきていることが簡単に知れた。胸中で安堵しつつも、それを隠すように目を逸らす。 「……眠いなら休め」 アッシュは無愛想に告げ重心が安定したのを確認すると、支えるために差し出していた腕をあっさりと放す。それにナタリアは再び目を細め、何かを諦めるように微かに息を吐いた。 「……わかりましたわ」 肩を落としたナタリアを気にした様子もなく、アッシュはつかつかと部屋の片隅に置かれた椅子に座った。 ナタリアはその場で立ち尽くしたまま、文字通り穴があきそうな勢いでまじまじとアッシュを見る。それを向けられた当人は、居心地悪く顔を顰めた。 「……なんだ。休まないのか?」 「いて、下さいますの?」 それは、酷く拍子抜けしたと言わんばかりの声だった。 きょとんと大きく見開かれたナタリアの目と、その理由が分からず疑問符を掲げるアッシュの間を、数度天使が通り過ぎて。 ようやく自分が居残ることの意外性に思い至ったアッシュは、僅かに熱を帯び始めた顔をナタリアから逸らした。 「も、元々見張りを頼まれていた」 ガキが後で煩いからなと、情けない『言い訳』を自覚しつつも目を合わせずにアッシュは言って。 「……そうですわね」 ナタリアは表情を和ませ、「殿方の前ですけれど、失礼します」と寝台に横になる。 「出来ればもう少し近くに来ていただけると嬉しいですけど」 その言葉にも、盛大な溜め息を落としながらもアッシュは無言で従って。これで文句もないだろうと言わんばかりに椅子を寝台横につけて座る。ここまで来ると、心情は最早自棄に近い。ナタリアもそれを悟ったようにくすくすと笑って。 ナタリアはふと手を伸ばし、アッシュの手をとった。 あからさまに顔を顰めたアッシュに向かって、ナタリアはにっこりと笑って見せる。 「指切りで約束では、心許ないですものね?」 まるで枷の代わりに、手を握っていようというのか。どこか悪戯めいた表情でありながら、振り払うにはあまりにもその目は、握り締めた力は重く。 空いている方の手で額を押さえてそっぽを向く。 「……好きにしろ」 「ええ。そうしますわ」 ようやく呻き声にも似た声で答えた言葉に、楽しげにナタリアは笑って満足そうに目を閉じる。 昔と変わらない強情さだと。胸中だけで独りごち溜め息を吐くと、眠気を帯びた吐息の様な声が名を呼んだ。 「ねえアッシュ」 それもまた、独り言のようにぽつりぽつりと。顔を向けることのないアッシュの相槌を待たずに落とされる。 「あなたは、怒るかもしれませんが……最後に一度だけ」 すう、と息をする音が聞こえて。 「これを最後にします……ありがとう、『ルーク』」 はっとして、アッシュはナタリアの顔を見る。限りなく線に近いほどに細められた瞳とぶつかって。 「……ありがとう……」 言葉と瞳の光は半ばで消え、代わりのように重ねた手に力が込められた。 完全に眠りに落ちた安らかな寝息。 我知らず、ずるずると息を吐き出した。それはまるで、押し込められたていたものが一緒に流れていくように長く。泣き出しそうな思いで、アッシュは呟いた。 「くどいと、言っている……」 今更になって洩れた、封じられていた台詞。 「……言わなければならないのは、俺の方だ」 まるで悲鳴のようだと、どこか冷静な心が告げる。 この世界に、『絶対』などというものなど存在しない。だからこそ、『絶対』とされる『預言』を覆そうと、何より大切としていた約束の手を不本意ながらも……だが、一方的に放してしまっていたのに。 そうして願いを果たさぬままに、ただ憧憬のように、抱くことだけしかしてこなかったのに。 約束の息づく場所を……ナタリアは持ち続けていた。約束の半分は、彼女によって形を成しつつそこにあった。 それをバチカルで目の当たりにした時、どれほど喜びに震えたか……どれほど救われたか。 「傍にいるように」と握り締められた手を見下ろす。 指切りなど意味はない。そんな儚いもので繋ぎとめられるものなど、ありはしない――本心ではなく、この手をそう撥ね付けてしまったことがあった。 それは言い訳だった。どこか幼稚な行為だと……他愛無い子供の約束だと、いつしかはぐらかされてしまうことを恐れたから。年の違いを恐れずにはいられなかった、幼かった自分。 そして、つい最近も同じように振り払っていた。 「馬鹿か……」 それは、何を指したものか。 自分に比べ、華奢で小さな手。それは記憶の中のそれとは違っている。弓引くその手に、昔にはなかった特有のたこがあることを知っている。埋めようのない時間が、そこには存在している。 それなのに、捨ててしまったはずの思い出ばかりが、想いが、際限なく零れ落ちてくる。色褪せることなく、存在してしまっている。幼き日々の記憶の中だけだったはずの『ナタリア』が、いつの間にか目の前の彼女と重なっている。 それは、約束が消えていなかったからだ。あまりにも美しく抱きすぎていたはずの過去の記憶そのままに、儚いはずの思いを彼女は持ち続けていたから。 全てを失ったと、自分に残されたものなどないと思っていたのに。知らず残していた思いは、今なお『約束』という形を持って、そこに存在していた。 ――そして、今。 互いに置かれた状況は、あまりに変わってしまった。 本来の場所を失った自分と、偽りの出生を突きつけられた彼女。 これから、彼女は様々なものに対峙していかねばならないだろう。その度に、迷い、恐れ、躊躇うかもしれない。だが『約束』を手放すことはないだろう。 ……たとえ場所を奪われ、絶望しても、自分が『約束』を忘れることがなかったように。 (ならば) この先、するべきことは決まっていた。 それを守る為に。限りなく絶対に近いこの思いを、今度は自分が守り続けようと。 形は変われど……たとえ側に居続けられずとも。 「――『いつか俺たちが大人になったらこの国を変えよう』」 躊躇いながらも紡がれたそれは、『ルーク』が残した……だが、今なお変わることのない想い。 「『貴族以外の人間も貧しい思いをしないように。戦争が起こらないように』」 その先、かつて続けられていた言葉は果たせぬままここに至ってしまった。 だから今は。 「……俺はおまえの思いと共に、あり続けよう」 たとえ、側にいることは出来なくても。 共に居たければ、手を握って放さなければいいように。 最後まで、この誓いだけは手放すことはしまい。 今度こそ、過たず……いつか再び、この手を握り返す為に。 かつての自分と重ねることを許せる――同じ誓いを口に出来る、その時まで。 静かな寝息の響くそこでアッシュは。 握りしめるその手を、今はただ、受け止めた。