本当にいつだって。 いいえ、最初からずっと、そう願い続けていました。 tonic 「おかーさん!」 両手と足と服と。砂遊びか転んだのか泥をたくさんつけた幼い子が、陽の光に負けぬほどに輝く笑顔を浮かべて駆けてくる。白昼夢のような一瞬の眩暈に襲われかけていたアンナは、その甲高い声にはっと我に返った。 「ロイド」 両腕を広げて微笑んで、突進してきた小さな子供の体を受け止めて、目の高さをそろえる。 「泥んこになっちゃって……なにをしていたの?」 「おとうさんのおてつだいしてたの! だいじなおみず、くんできたんだよ!」 そうやって差し出されたのは、今日料理に使うからと少年の父親に頼んで渡していた小さな水袋。 驚きに目を見開くアンナに、まるい目をくりくりと動かして、ロイドはえらいでしょと言うようにえへん胸を張ってみせる。 (もうこんな風にお手伝いもできるくらい大きくなっていたのね) こみ上げた喜びとともに、鼻の奥がつんとする。 (ああ、あと何度――) 浮かびかけた言葉を打ち消すように首を左右に振って。悟られないようにアンナはりんごのように赤くなったロイドの頬を両手で挟むと、額を合わせた。 「えらいわ、ロイド。でも、汚れたおててでご飯を食べるのはおいしくないでしょう? ちゃんとお水で洗っていらっしゃい」 もうすぐしたらご飯にするからね、と告げれば幼子は瞳を輝かせて。 「うん!」 両頬をはさんだアンナの手からするりと抜け出して、パタパタと軽い足音を響かせていくロイドの小さな後姿を見つめる。つい最近まで、はいはいができたと喜んで、一人で立てたと一大事のように抱き上げて報告していた気がしていたのに。もう、歩き回ることが楽しくて仕方がないとばかりに、色々なものに手を伸ばしてはこちらをはらはらとさせながら喜びを与えてくれる。 (いつの間に、こんなに大きくなったのかしら) 幸せな時間が経つのはあまりにも早くて。ずきりと、痛む胸のうちで残された自分の時間を数えてしまう。――あとどれほど、残された時間があるのか。 ロイドの頬を包んだ温もりの残る手のひらの反対側、その甲に埋め込まれた皮膚ではないものに爪を立てる。 まだ、クラトスにも言っていない。日に何度か、意識が混濁してしまう。そして少しずつ、感覚が鈍くなっていること――このエクスフィアと『同居』を続けることによる影響が、要の紋を着けてなお決してなくなったわけではないことを、日に日に思い知らされている。 その事実を言えば、きっと焦燥を与えて、わたしと同じように残された日を数えてしまう。 ……それだけはいやだった。 でもきっと、もう残された時間はそんなに長くはない。 「アンナ」 不意に耳に飛び込んだ低い呼び声に、アンナは思わず息を呑む。いつの間にか手渡されて受け取っていたのは、さっきロイドの運んでいたものよりずっと大きな水袋。 でも、そうと意識しなければわからないほど、その感覚は希薄だった。 目の前には。 「クラ、トス……」 気づかないほうがどうかしているほど、名を呼んだ丈高いその人が覗き込むようにこちらを見ている。 (意識が、なかった……?) 思い至った事実に、冷水を浴びせられたように肌があわ立つ。 「どうした? 顔色が悪いようだが……」 訝るように眉を寄せながらも気遣うクラトスの声に、ぎこちなくアンナは首を振る。 「……たいしたことじゃないわ。少し日に当てられたみたいなの」 きっと、隠し切れない。いつかは――近い将来にばれてしまうことは分かっている。それでも、後もう少しだけでいいから、こうしてささやかでも幸せな日々の隣を一緒に歩いていたいから。 (わがままになったわね。わたし) 人間牧場から抜け出したあのときから、ずっと『あともう少しだけ』と思い続けていたはずなのに。きっと最後まで、そう思わずにはいられないのだ。 気遣うように肩に回されたクラトスの腕に手を重ねて、アンナは微笑んで顔を見た。 「今日は何が食べたい?」 過ぎ行く時間は『少し』だと感じてしまうくらいに、幸せだから ねえ。どうかひとつでも、少しでも長くあなたの側に『幸せ』として歩かせて。 「おかあさん!」 そう呼んでくれるあなたたちの側に、どうかあともう少しだけ隣を歩かせて―― *tonic:調のうち最も中心的な1音で、音階の第1音。楽曲はこの音で終止することが多い。 『もう少しだけ』……ずっとそうやって積み重ねてきた幸せな生活の、終章の始め。 お題「もう少しだけ隣を歩かせてほしいよ。」 |
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