火が消えたような――まるで通夜か何かのようだと思いかけて、思わず唇を噛み締めた。
ほんの僅か前まで、今そう表現できるだけの前提があったことを思い知らされる。
かつては、今この状態こそが『当たり前』だった。その、はずなのに。
たとえば、湯だったものが水となり、漆黒の髪から滴り落ちても。
どんなにその破片が周り中に散ろうと、つい最近まであった声とすくい上げる手はない。
――今、『彼女』はここにいない。
------- ぬらすもの
シャワーを浴び、いつものようにほとんどふき取られていない髪から、大粒の水が滴り落ちる。
そのままソファに座り込み、流れるままに水を落とす。それは、自身に対しても例外ではなく。
以前なら慣れていた纏わりつく水が、今は異常なまでに煩わしく感じて違和感に僅かに眉を寄せる。
――『風邪ひくでしょ!?』
怒っているんだか心配しているんだか、お人好しにもその両方でもって叩きつけるようにタオルを投げるやつがいたのだと、過去形でぼんやりと思い出しかけて。
……水の煩わしさの理由と、思い出してしまった自分への苛立ちに強くかぶりを振る。
それは極力考えないよう避けていたはずのことだ。
きつく歯を食いしばって、『それ』を意識から締め出そうとして。
一定のリズムで途切れることなく続く水音にさえ苛立ち、鬱陶しくぬれた髪を握って手のひらに水を受ける。そして手のひらで受け止め切れなかった水があふれて腕に一筋跡を残して落ちて……
――水の、跡……
それは、最近見たそれによく似た何かを否応なく思い出させる。反射的に水を受けていた手のひらを握り、振り払うように腕を払う。
それでもなお、水音は止まることなく、その度に連想されるものは同じ――
チッと小さく毒づいて、何もかも、碌なものを思い出さないと舌打ちして立ち上がりかけた時。
フワリ、と。
不意に、広げられたタオルが目の前を覆った。否応なく引きずり出される既視感。
視界を奪い、それがスクリーンとなり映し出されるものは。
「かず……っ!」
思わずいるはずのない者の名を呼びかけて、弾かれたように口を塞ぎ。口元を覆ったまま動けないまま固まっていると、言葉が続けられる。
「誰を思い出した?」
静かな、声。見ずとも分かる、何もかも見透かしたようなその声の主。
「……灰人」
「誰を、思い出していた? 瑞貴」
「……」
答えない。答えられない。答えたくない。浮かびそうになる何かを消すように、意味のない言葉を並べ立て、きつく目を閉じ歯を食いしばる。どこかを切ったのか金臭い血の味が口内に広がり、手のひらに爪が抉るように深く食い込むが知ったことか。
やがて、溜め息のような息の音が届いて声が遠ざかる。
「気分が悪いなら自分でふけ」
滲み出す苛立ちに気付かないはずがないのに、耳に届くのはどこまでも淡々とした低い声。
「――また風邪を引くぞ」
ワザとのように告げられる言葉が癇に障る。
――『風邪ひくでしょ!?』
自然耳の奥で響く声は、消し去るにはあまりにも馴染み過ぎていた。そうやって、何を意図するのか、分かりすぎるほどに読み取ってしまう自分がなにより――
唇を噛み締めて俯き続ける。一段と濃い血の味が口内に広がり、強い吐き気を覚えて。整理のつかない思考が一段とまとまらなくなる。
ぽたり。ぽたりと。
のせられただけではまだ拭いきれない滴り落ちる水が、速度を落としながらも鳴り続ける。もはや締め出すにはあまりにも強く焼きついていたそれは――
――最後にまっすぐに見た瞳から零れ落ちたものと、あまりにも似ていたから。
見たくなかった。思い出したくない。どうすればいいのか分からない。
何より望まなかったはずなのに、その映像は鮮明で……ただどうしようもない苛立ちと焦燥だけが増していく。
これ以上それを思い出したくもないから、水を吸い取るタオルを投げ捨てられず、だがそれもまた彼女の記憶に強く結びつく。……不毛な堂々巡りを続けて、結局何一つ中途半端に投げ捨てることも出来ていない。
まるで――
(――違う)
思い至りかけたものを強く否定することで振り払う。また新たな金属臭が広がったが、それも全て飲み下す。
何も見えるはずがない。この目に映るのはただのタオル、ただ、それだけだと。言い聞かせるように繰り返す。
そうしてもはや感覚がなくなり、手のひらに張りついたような指を一本一本引き剥がして、ようやく眼前に広がるものに指をひっかけるようにして引きずり下ろす。
「瑞――」
「明日本家に行く。朝一で須佐に来るように伝えろ」
メシもいいと灰人の声を遮り、目を合わせることも振り返ることもなく、そのまま部屋を出る。思い出さずにいるには、ここはあまりにも思い出す痕跡が多すぎた。
点々と続いているだろう水の跡を振り向かずにドアを閉め、苛立ちのままに振り上げた拳を壁に叩きつける。
「――くそッ……!」
ぎりりと、強く歯を食いしばる。
苛立ちのままたたきつけた手のひらに痛みはない。麻痺したように、動かない痛覚。
感情も――消え失せたらどれほど良かっただろう。だが、どんなにその『フリ』はできても、消え失せまではしない。そのことは、よく分かっている。
なにもかもを諦めたつもりで、それでもジーさんの言葉に縋ってしまったように。
――『花』のことであれば猶のこと。
部屋に戻り、倒れるようにベッドへ転がり何もない天井を見上げて。すぐに目を伏せて、指の先にかろうじて引っかかったままの投げつけられたタオルを握り締める。
わずらわしい水をタオルで拭い去るように、何もかも余計な感情を拭い去れたらよかったのに。埒の明かないことを考えて自嘲的な笑いを刻む。
無造作にのせられたタオルのため、もう髪から滴り落ちるほどの水はなくとも。もはや避けていたはずの『それ』は、振り払えないほどにべっとりと胸のうちに張り付いてしまって取れはしない。
――浮かぶのは、最後に真っ直ぐ目を合わせた時の、涙の跡さえ残る泣き顔ばかりだ。
幼い頃ジーさんが死んだ時は、魂返しすることでその涙を止めることが出来た。十矢の時も――そう。
だが、今は……これだけは、遠ざける以外に方法が見つからなかった。
彼女が記憶を失ったあの日、嘘をついてでも、どんなに痛みを感じても、笑ってあの手を離したように。
だからこそ。最初はこちらの事情に踏み込ませるつもりはなかったのに。必要以上に苦しませることや背負わせることは論外だったから。そう長くはない全てを終わらせるその時まで――そして仮に思い出したとしても、少しでも彼女が余計な情を移すことなく知らないままでいられるように……そう、立ち回るつもりで。
……それが、本気で出来ると信じていたわけでもなかったが。口元だけで自らを嘲笑う。
現に、早々に事情を知られた挙句このざまだ。もはや笑うことも出来ず、顔を覆うように両腕を交差させて視界を塞ぐ。
――そうだ、分かっていたのに。
『どうして忘れちゃったかなあ……』
思い出さないうちから、忘れてしまったことにすら後悔をこぼすような、あのどこまでも真っ直ぐでお人好しなヤツが。記憶が戻れば、自分のせいだと思って苦しむのを……泣くことが、予想できなかったわけでもないのに。
何も出来なかった。何の対処もしないままここまできてしまった。
全部思い出したのなら、気付いてしまったはずだ。何を考えているか――混乱してどんな見当違いなことで思い込んでいるのかなんてイヤでも分かる。
だからしばらく実家に戻れと言った。一度、時間と距離を置いた方がいいと思ったから。
何もかも忘れていた彼女の手を、嘘をついて離したあの時のように。落ち着けば元のように何もなかったことになると――
――本気で、思ったか?
自問する声に耳を塞ぎたかったが、もはやそれに抗うだけの気力も残っていない。きつく目を閉じて首をゆるく左右に振る。
――分かって、いたんだ。
本気でそう信じていられるほどおめでたいなら、どうして頑なに思い出すまいとする必要があるだろう。たとえ忘れられても、その記憶にすがるように支えられてきたのは他でもない自分なのに。
思い出せないのは、目裏にこびりついて離れない泣き顔と……そして、あの真っ直ぐな目の奥にあった、恐れるような色に気付いていたからだ。
どうしてか傷ついた顔をして。目の奥に俺に対する恐怖の色を滲ませたその眼が、染み付いて離れない。そう思われても仕方がないだけのことが、確かにあった。それを聞きたくないと――
――記憶を取り戻すことでずっと恐れていたのは、自分を見るあの目に恐怖や嫌悪の色が浮かぶこと。
はじめに突き放したのは、自分なのに。もう、戻ってこないかもしれないと……どこかで覚悟し、恐怖している自分がいる。
いつだって彼女は真っ直ぐな目を向けてくれたから。
たとえどんなに酷く扱われようと、屈するのではなく真正面から立ち向かうことを選ぶ強さで睨みすえて。
なのに最後に見た彼女のそれは、恐れを帯びた必死な表情。
『瑞貴 あたし……』
何を、言うつもりだった? あの真っ直ぐな目で、今度こそ本気で恐れから拒絶を告げられたら――
「俺は……」
――どうしたらいい?
情けないほどに擦れた声は、どこにも届きそうにないほど細く響いて霧散する。
ただ一人答えてくれただろうジーさんはもういない。
(決めて、いたのにな)
どちらにせよ、いつかその手を放さなくてはいけないことを。それが少し早くなった、ただそれだけなのに。ある意味好都合とも呼べるかもしれないのに。どうして迷う?
そして、たとえそうでなくても――
『あたしの……せいだ……』
保健室で見た、眠っている時でさえ、うわ言のように繰り返して謝りながら泣いていた、彼女。
(俺は、知らない――)
巻き込まれた被害者なのに、忘れていたことにすら罪悪感を受けた挙句に人のために泣いてしまうような。
そんな理不尽な痛みのために流される涙の止め方なんて――
「知らないんだよ――」
いつだって自分を支え続けてきた彼女の記憶が、今は全て泣き顔しか辿れなくなってしまったままで。
かといって罪悪感に濡れた目も、拒絶の言葉も受け止めるだけの覚悟も無い。
『泣かないで欲しい』と、ただそれだけの願いは、今なお途方もなく遠いまま。
どんなに握り締めても拭うものを見失ったタオルは用など果たせずに、届くこともない。
手もなく拭いきれない滴り落ちるものが、ぱたりぱたりと落ち続けている。
*瑞貴にとっても、この時期が一番辛い時だった気がしてならないです。考えれば考えるほどどつぼにはまってしまう気がして。
極力巻き込む気はなくて、そうするだけの覚悟も決まらずに、でも泣かせたくはなくて……と。
……一度は書いておきたいとは思ったけれど、二度と書きたくない話ではあります(苦笑)2002.2.23/2007.8.12(改稿) 初出 【出雲奏司】