『はーい、ストップ! いい? そのまま動いちゃ駄目よ!』
 スケッチブックを片手にじっとこちらを見ながら指図していた彼女から、弾ける様な明るい声が飛んでくる。背景にあるのはいつも青空で、そこに背中へと軽く払われた綺麗な栗色の髪がわずかな風に乗って広がる。
 それが、いつも始まりの聲だった。



   一 瞬  恒 久



 僕のアトリエの中の一角には、いくつもの絵と一枚の写真が置いてある。絵、とはいっても、鉛筆だけのラフに近いものが殆どで、色付けまでされているものは片手の指にたりるほどではあるけど。描き手の気まぐれをよく表しているのかなと思うことがたまにある。
「この絵、全部同じ人が描いたんですか?」
 よくわかったね?
「構図もどれも良く似てるし、タッチが同じです」
 言われてみれば確かにそうだ。よっぽど興味のない人間でなければ気付くかもしれないね。
「この写真の女性が、この絵を全部描いたんですか?」
 そう。晴れた日によく一緒に出歩いてね。その都度彼女の模写の練習につき合わされたんだよ。
「だからこの絵には先生が全部描かれているんですね」
 まあ、そうなるかな。考えて見れば彼女とは不思議な関係だった。写真を撮るのが好きな僕と、絵を描くのが好きな彼女。接点なんて何一つなかったからね。どうやって知り合ったのかさえ、正直覚えていない。
 でも僕は一瞬だけ見えるその刹那の景色を、彼女はそこにあるものを見えるありのままに写すのが好きだった。「写す」手段こそ違ったけれど、僕たちは景色に対して同じ考えをもっていたんだ。
『見たものをそのまま写して切り取っておきたいのよ』
 それが彼女の口癖だった。
「でも、それなら普通カメラを使おうと思いませんか?」
 うん。いつだか僕もそんな風に聞いたことがあった。
 それに彼女はうーんと唸って唇を尖らせて言ってたっけ。
『だってそれじゃ構えちゃうじゃない。私は“私が”見つけた素敵な情景を、その瞬間を切り取って、いつでも思い出せるように、伝えるために描きたいの』
「……カメラも似たようなものだと思いますけど」
 そうだね。多分彼女は風景から受ける印象の方を重視していたんだろうな。
でもそのときは、まるでいたずらでも見つけられたように、ちょんと首をすくめて彼女は答えたよ。
『私が写真撮られるのが嫌いだっていうのが関係してるのは否定できないわね。そしてそれ以上に絵を書くことが好きだってことも。それに、それはあなたが撮ってくれるでしょ? 私が撮るのではもったいないわ』
 最後の方はきらきらとした笑顔で言うんだ。彼女は人を喜ばせるのが得意だったのかもしれないな。でも……
「『でも』?」 
『でもあなたの目は少し怖いかもしれない。あなたのレンズはあまりにも真っ直ぐで、そのまま全てを写しこんで吸い込んでしまいそうだから……』
 彼女はそんな風にもよく言っていた。
「じゃあこの写真はいつ撮ったんですか?」
 彼女が絵の勉強をするために留学する事を聞いたときだよ。
『もう当分……会えなくなっちゃうわね』
 そう言って、少し寂しそうに彼女は笑ったから、だから頼んだんだ。写真嫌いなのは知っていたけど、最初で最後だと思ったからどうしても残して置きたかった。僕はそのためにカメラを持っていて、そして彼女もきっとそれを望んでいた。
『じゃあ、一枚だけ』
 そう言った彼女に頼んだのは、いつものように絵を描こうとしている瞬間の姿。
「それが、この写真なんですね」
 そう。後にも先にもこの一枚だけ。
 ……ああ、気まずく思わせてしまったかな。
「……この方は、今はどうされているんですか?」
 きっと、スケッチブック片手に彼女の言う『素敵な情景』を描こうとしているんだろうね。
「絵を描くことが本当に好きなんですね。だからこんなに楽しそうに笑ってみえる」
 そうかな。僕にはこの彼女は苦しそうに見えるんだけど。
「え? でも……こう言っては失礼かもしれませんが、思い出って美化されるものでしょう? 普通、だんだん綺麗で楽しいものだと見えてきませんか? これ撮られたのって随分前ですよね?」
 首を傾げてこちらを見上げた相手に、痛みとも切なさともつかぬものを感じて、さぁ……どうしてだろうね、とだけ言って僕は苦く微笑んだ。

 僕にはきっと、君と同じようには見えないんだよ。彼女の言った通り、僕はありのまま全てを見つめてしまうみたいだから。
 僅かに風が吹いたのか、震えるようにその写真は揺れ、カーテンの影を細かに刻み込む。
 あの時から空の色は幾度も塗り替えられ、いくつもの季節が通り過ぎた。
 しかし、この空間に置かれたものたちの時間は、決して動く事はない。僕がそうあれと願い、とり残した・・・・・ものだから。


『はーい、ストップ! いい? そのまま動いちゃ駄目よ!』
それが、いつもの始まりで……そして終わりの聲。




恒 久  一 瞬   





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